だれの目から見る、か?


尊敬するプレーヤーの試合を、何度も何度も、
なんどもなんども 見る。
そのうちに見る 視線 が、カメラの目線 でなくて、
そのプレーヤーが見てる目線 になってくる。
その人が見てる フィールドの右側、左前方のスペース、
近くに迫ってくる敵の動き、ボールの流れ が見えるようになって、
その人がみてる 次あいつはどううごくか、おれの対面はどう動くか
そして おれはどう動くか という頭の中が見えてくる。


そうするとその尊敬するプレーヤーのプレーが出来るようなっていく。
自分のものになっていく。


ラクロスがうまくなるためには、
目標って必要だよね、それも漠然としたものじゃなくて、
「こういうシュートができる」「こういうプレーが得意」などの具体的な、
本当に具体的なイメージ。
という話をしていたら、P君(部活後輩)が、前述の話をした。
その感覚、とてもよくわかる。


サッカーの試合を見るときに、何気なく見てるとカメラ目線で見てしまう。
が、意識して一人の選手になってその目線で見ると、
試合のことを本気で考えて見られてオモシロイ。
その時見てるのは、自分の足元のボールであり、フィールド前方の
スペースであり、ダッシュしてスペースに走り込む味方の背中である。
自分ならいつこの足もとのボールを蹴るか。どこへ?どんなボールを?


自分事としていろんなことを見るのはとてもおもしろい。


先日六本木のコルビジェ展を見に行った。

おおお すごいなあ という見方もある。
だけど、(なぜか近年また急速に注目を集めている)建築家である彼の展覧会は、
他にも 1.作り手の視線 2.その建築にすむ人の目線 で見ると、
とてもおもしろかった。


この絵を描くときに、自分ならここに赤は持ってこなかっただろうなあ、
なんでここに赤をこの位いれて、しかもここに黒を置いたんだろう。
この建築模型をつくるとき、まずなにから考えるだろう、自分なら。
どうして建物のこんなところに穴をあけたんだろう、自分ならどうしたかなあ。


とか


自分がこの家に住んでたら このスロープを段ボールで滑り降りたいなあ。
天気のいい日はこの屋上にデッキチェア出して 白ワインだな。


とか。


その流れで森ビルの展望台から外の高速を見ていたら、
週末の遅い時間に都内に向かう車に乗っている人はきっと、
ああ早く帰りたいなあ 明日から仕事だよ もう 
とか考えてるのかなあ、と他の人のストレスまで味わってしまった。


高速道路を流れていく車のヘッドライトの金色の筋は東京の美景の一つだと
常々思うけど、でもコルビジェ展でみた真っ白な とぷん とした形状の教会が
どかーーんと丘の上に乗っかっている方が、よっぽど美しかった。