台風一過のこどもたち


台風一過の三連休の中日の日曜日、代々木公園の近くにいた。
頭上には激しく流れていく雲と、その合間から夏を感じさせる日差しを刺しこむ
傾き始めた夕方直前の太陽と。
足下には、地面からひんやりと伝わる雨の足あとと。
その間に、一度激しい風雨できれいに洗われた澄んだ空気があった。
そして目の中に飛び込んだ代々木公園のふかふかの芝生が生い茂った斜面。


ああ、でんぐりがえりがしたい!
久しぶりに、めったにしないし、そういうこと。


というわけで、その湿度のある空気と芝生に呼ばれて、代々木公園の
芝生の斜面で友人とでんぐり返り。
足裏に芝生がふかふかと気持ちよかった。
三人で笑いながら、ごろごろごろ。ごろごろごろ。


得心して、裸足の足をヒールに押し込もうとした、その時。
足元に雨天でまるまると元気になったミミズが一本、いた。
その姿はまるでほんとうに一本のえんぴつのようだった。


えんぴつ。
これも最近めっきりご無沙汰のものだ。
むかし、そういえば えんぴつの木 というような物語があったなあ、
とうろ覚えの記憶の中で思い出した。木製の机に穴を明けて、えんぴつを
立てて水をやって育てたら、えんぴつがかわいい枝葉をのばしていった、
という話だったような。


むかし読んだ物語、というのはどこかで強烈な印象を残して、
その物語の記憶やあらすじなんて何一つ残ってはいないのに、
自分の行動や考え方に影響を及ぼしていることがあると感じる。
直接的ではないのだけど、
自分が実際には経験していないものや場所や空気や気持ち、
それは、悲しみ、苦しみ、悪意、不安、喜び、楽しみ、逡巡、焦燥感、
衝動、情熱、・・・
そんなものを他のものを通して体験することによって、
いろんな記憶や思いが自分のなかにぽかんぽかんと残っていくように感じる。


普段は水面下で潜在的に存在するそういう過去の疑似体験や
そのきっかけとなったものが、ふとした瞬間にぷかりと顕在化することもある。


この間、サンドイッチ屋さんの話をしていて、ふと サンドイッチは夢のとき
 ということばが飛び出して、ぱあ、と昔読んだ本の中で見た
サンドイッチ屋さんの風景が眼下に広がった。
色調はうっすらとモーヴの色みがかかったような店内で、
私はカラシのきいたサンドイッチをほおばっているのだけど、
周りの人たちのざわざわや一緒にいる家族(だったような)の会話が、
なんだか近くて遠くに感じて、強い孤独感を感じながら、
カラシがつーんとして涙していた。
こう書くとなんだかとても陳腐なのだけど、その空間の雰囲気と
そこで感じた孤独感が、こどもから少しはみ出していく過程で
人が感じる切ない言葉にできない感情の一切れのようなものが、
とても強く残った。


記憶を頼りに探したら、この本は、「サンドイッチは夢のとき」奥田 継夫作。
そのなかの、「なみだのきいたサンドイッチ」というのがこの物語。
不思議な印象とこの表紙のイラストは、ぼんやりと記憶にあった通りだった。