Luck is no Accident


モルヒネ」、という本を読んだ。モルヒネ (祥伝社文庫)
からりと晴れたGW中に、タイトルからしておよそからりとしない
この小説を読んで、当たり前なのにまた改めて噛みしめた。
人生はどうしようもないことだらけ。
むしろ、思い通りになることなんて本当に本当に少ない、と。
それが、自分以外の人、であればなおのこと。


なのに。
なのに、なぜか期待してしまう。


期待に応えてくれたら、本当にうれしい。
だけど、もしかしたら期待しているだけで満足、なのかもしれない。
期待をかける相手がいるだけで。


モルヒネ」では、期待はかなわなかったことが多いし、
多分かなうことをあまり期待していないふしもあった。
それは、あまりに期待が裏切られ続けたから?
そうかもしれない。
期待して、心待ちにして、
でもかなわなくて、裏切られて、傷つけられて。
それでも人は人に期待できるのだろうか。底なしに。


だけど、裏切られるとわかっていても、
そんなことをひっくるめて全てを許している相手なら、
期待がかなわないことなどさほど大切じゃないかもしれない。
ただそばにいたい、と思うのかも知れない。
傷つけられた過去と同じようにまた姿を消しても、彼らしい、と
思ってしまうのかもしれない。全てを、許している相手のことなら。


どうしようもならない痛みに胸が締め付けられ、苦しめられ、
どうしようもない涙も枯れ果ててしまうことがわかっていても、
なお追い求めるだろうか?自分なら。


・・・ここまでの達観は自分には無理だなあ、と思う。
どうしようもならない、例えば人の気持ちのようなものに
呼吸が苦しくなったことはあっても、搾り取られるような涙を流したことはあっても。


たった一人の人間が、一瞬そんなことで苦しむのなんて、
広い宇宙の中で、悠久の時間の中で、一瞬の星のまばたきよりも
ちっぽけな、ちっぽけなことだとも思う。
一人の人間が生きるも死ぬも、泣くも笑うも、本当にちっぽけなことだ。
そんな大きな、大きな空間の中の一瞬存在する、"粒"のような存在が
思った通りになることなんてなくて当たり前、
どうしようもならないことが溢れていて当然。
そう思いながらも、一方でその"粒"は、同時に期待してしまう。
自分にも、他人にも。
なぜなら、小さな粒も、周りの少しの粒や空間になら
自分の考えが、期待が、影響を及ぼせると思っているから。
そして、それも本当だと思う。
人生は"思ったとおり"にはならないけれど、
"思ったことがないこと"が降ってわくことはほとんどない。
"思ったことがあること(大体)"で人生のメインは構成されている。
思い通りにならないことだらけのこの世の中で、willがwayを
(少し)左右する、と知っている。


Luck is no accident.


そこには、はじめに非力な粒の小さなwillがあった。
So, there came luck. いい言葉だね。