やわらかくてあたたかいもの


そして生々しくて原始的なもの。
それは、人間。


最近、二つ小説を読んだ。
「ジャンピング☆ベイビー」野中柊ジャンピング・ベイビー (新潮文庫)
「飼育」大江健三郎


二つの小説の間には、なんの文脈もない、
関係もない。


前者は女性の話。なんということのない、離婚した夫婦が
飼っていた猫の何年目かの命日に一緒に埋葬をしにいく
情景が描かれている、二人で過ごした日々の回想とともに。
それは離婚したことへの後悔でもなく、
昔はよかったなあ、という憧憬でもなく、
淡々と二人がどういう日々を過ごしてきたのかという回顧。
そしてユキオという猫の埋葬が終わり、
二人は、鎌倉の街へ(男性の方の)今の彼女と赤ちゃんに会いに行く。
赤ん坊は、過去と現在の二人の女性の間でジェラシーの
対象にもならず、あこがれの対象でもなく、
ただ力強く生きる、おっぱいを飲み、
なまあたたかいおしっこをして、生きる存在として描かれている。
なんてことはないことをみずみずしく、本当にみずみずしく描いている
この小説は、これからの男女と赤ん坊の行く末になんの不安も
なんの期待もさせずに、普通の人の生の生活を生に切り取っていると思う。


翻って、「飼育」。
大江健三郎をきちんと一作品(短編だが)読んだのは初めてだった。
O君(部活後輩)の薦めで文庫本を貸してもらって読んだ。
時代だろう。
今の日本にこれだけの原始的な人間の姿は存在するか不明だ。
(そもそも大江自身こういう風景を直に見たのかはわからないが、
この描写はそうだと読者に確信さえ感じさせる時点で
ものすごいと思う)
ここの描かれているのは、戦中の日本の山奥の村での生活。
その村に住む「僕」が、子供の、畏敬と軽蔑を同居させた視点から
自分の世界・外(「町」)の世界の人々を見、捕獲した米軍兵を
村の倉に幽閉していた一夏の経験を描いている。
その描かれる人々は、
垢と汗と血と糞尿と性という物理的な生のものがあらわだし、
軽蔑や権威や恐怖や羞恥という非物理的な生のものもあらわだ。
そして、敵と味方、従順と背反、生と死はすべて
一瞬だけの違いであり、境目なくあっという間にそれが訪れる。
それを一夏の経験を通じて当たり前に受け入れられるようになった
−というよりも無意識的に刷り込まれた、気づかない内に−
「僕」は、もうこどもではない、と自分のことを気づく。
あまりにもあっけなく、あまりにも生々しく。
人間が本当は美しくもなんともないことを痛感する。
生命の強さを感じるでもなく、もろさをいたわしく思うでもない。
ただ人間という存在のそういう当然の側面を、無言でずい、と
目前に突きつけられた感じだった。


人間は、原始的で、生々しい。
だけど、やさしくて、あたたかい肉片だ。