50円玉理論


ちょっと前になるが、N(妹)と話をしていた時に50円玉理論の話をしていた。
そのときより前に、私はどうもその話を彼女にしていたらしい。


どういうことかというと。

こどもに、
A「机の上に、50円玉を立ててみて」
というと、こどもは一生懸命50円玉のバランスを取って立てようとする。
けど、割と難しくて成功率が低い。


だけど、
B「机の上に立てた50円玉の穴に、糸を通してみて」
というと、こどもは50円玉を立てて糸をなんとか通そうと一生懸命になる。
もちろん、50円玉を立てるところで苦労する子もいるが、

  • 50円玉を立てられる率

は前述の場合と比較して非常に変わる、という話。

  • 50円玉を立てる

という行為自体は一緒なのに、
Aそれ自体が課題となっている場合
Bその先が課題となっている場合
によって、その行為の成功率に格段の差が出るというのだ。


これは、Bの場合には「50円玉がたつ」ということは、その先の目的のためには
「起きて当たり前」のことになるから、心理的ハードルが低くなるためだ、
というような解説だったように思う。


細かい話はともかく、大事なことは

  • その先が見えていると、手前のちょっとした課題は「乗り越えて当たり前」のことになり、そうなると「その課題は当然成功裏に乗り越えられる」と思い込める⇒軽く乗り越えられる

ということだと思っている。
本当に、人の「思い込み」の力ってすばらしくもあり、恐ろしくもある。


なぜNとそんな話をしていたかというと、彼女がちょっとしたハードルを乗り越えた時に、それを振り返りながら「これからもそういうことがいっぱいあると思うけど、その先にある目標(50円玉に糸を通す)を見ていなよ。」と話をしていたからだ。目の前のハードル(50円玉を立てる)に目を凝らしていると、「50円玉を立てられるかな」という不安が襲ってきて、「50円玉がたたないかもしれない」という余計な不安を思い描いてしまう。この失敗イメージが頭にあると、そのイメージに向かってまっしぐらにむかっていくことになりかねない。だけど、本人はもちろん、私もNの目標はそんなところにないと思っているし、気分的には4,5枚の50円玉に糸を貫通させるくらいのものを達成してほしいなあと思っている。だから彼女は「50円玉立つかなあ」と考えている暇などないのだ。たつのは当たり前だから。


そんなことをえらそうに言っていたら、確かに今回のこのハードルを乗り越えるとき、そのハードルのことを近視眼的にみることはしていなかったなあ、とNが言った。私の目標はもっと遠くにある、とはっきり思っていたと。そういう心理状態に自分を今後もコントロールしていってほしいなあと思う。


仕事をしていてもよく思うのだけど、近視眼的になっているときはちょっとしたことが必要以上に重くのしかかって感じられることがある。すごくストレスを感じたり、追い詰められた気分になったりする。
だけどそれは大きな視点に立つと瑣末に思えたり、そんなことで落ち込んでる暇はないなあ、と思える。
だからドスンと何かが重たく感じられる時や、「これは自分にできるのかな」と不安になるときには、思い出すようにしている。
そんな、50円玉理論。