「生物の無生物のあいだ」★★★★☆


友人T(ラクロス同期)に薦められた。
新書なのですんなり読めると思っていたが、
たんぱく質の生命における意味やそのふるまいを説きながら、
話は生物のダイナミックな営みから
遺伝子研究における研究者の熾烈な研究競争の歴史とその舞台裏、
リアルな研究現場の自身の体験まで広く展開していく濃い一冊だった。


生命体は、構築されたものがビルドオンしていき、
老化に伴いそれが徐々に機能劣化していくというような
静的造形物ではない、
それは日々分子レベルで新しいパーツに入れ替わっていて、
例えば今日と来年の今日、我々がほとんど同じ見た目だったとしても、その自分を構成している細胞レベルではほとんど別のものに置き換わってしまっている。


そんな動的平衡の上に、生命が成り立っている。


それはあまりにも不思議で、
日々生きている中で実感することなどなく。


しかし生命に対してこんな大胆な仮説を立て、
実証してきた研究者たちがいる。


そしてその研究者たち自身も、
細胞レベルで日々入れ替わっている。違う構成になっている。
それも、遺伝子に組み込まれてきたのか?
人間が生命体の中で特別だと思うのは傲慢という考え方に賛同する一方で、なぜ人間だけが生命の基本として遺伝子に組み込まれた「生命を営む」活動以外にこのように「生命とは何か」と問い、遺伝子を研究するのだろうか。
その人間自身も遺伝子によって構築され動いているというのに。


このように考えると、やはりキーとなるのは「脳」であり、
人間の脳のなぞに迫りたくなる。


しかし一方で、思索は脳だけの仕業でなく、
遺伝子にプログラムされた意味のないように思える活動の集積が
意味をなすことも真実である。(「創発」のアリの行動のように)


別次元の話?
遺伝子にプログラムされたことと脳による思索されたように見えることを区切ることにそもそも意味はないのだろうか、とここまで書いて思った。


閑話休題
生物の授業が好きだった。
高校時代、教科書に載っていた内容でもっとも刺激的だったのが細胞と遺伝子の話だった、
そこには複雑な要素によって構築される生命の最小単位があり、一定にとどまらず常に変化し続けるパーツがダイナミックに、そうその教科書を読んでいたその瞬間にもうごめいていたのだ。
そして遺伝子の話、ワトソンとクリックという「偉大な」研究者によって発見されたモデル、二重らせん構造により生物の「すべて」がコーディングされているという話。
教科書を読んでいても理解できない内容だった。
読んでいて、教科書や参考書を書いているヤツも、この遺伝子というものをそんなに理解してないんじゃないかと思った。
それくらい、生で現在進行中の話であることが伝わってきて面白かったのを覚えている。
思えば、学問を現在進行形で捉えられたのがそのときだったのかもしれない。


生物と無生物のあいだ」において、ワトソンとクリックは彼らのみが「偉大」なのではなく、名前が出てこないがその影にたくさんの研究者の壮絶な研究があったと描かれている。
研究者たちが研究対象としていたものが、彼ら自身の行動を形作り、競争や嫉みや憎悪という感情をつくることを考えると不思議である。
それはさておき、飽くなき研究を続けたクリックが最後の時をすごした場所は、建築家ルイス・カーンの手による「ソーク研究所」だった。
それを知り、鳥肌が立った。


崇高な研究者が最後を過ごした場所としてこれほどふさわしい場所が、この世界のどこかにほかにあるのだろうか。


崇高で神聖な感すらある、
跪いて祈りたくなるような


人を敬虔で真摯な気持ちにさせてしまい
ふるまいさえ変えてしまう力を持つような


そんな場所で、クリックはその生涯を終えた。